車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』(続き)

(続き)

先回「崖から飛び降りる」と書いたけど、崖から飛び降りるというのは、執着を捨てて、名声や富や、社会からの承認一般をあきらめるということだから、文字通り「世の中を捨てる」ことを指す。

そうやって生きたい気持ちは、今でももちろんある。私の今の暮らしはそうした試みが挫折した結果で、だからいつも、生活の現実の苦しさはもちろんあるけど、同時に、「世の中で生きていこうとすること」それ自体への疚しさも、苦しみの原因になっている。

世を捨てることへの憧れは、クンデラが「弱さへの憧れ」とか「高さのめまい」とか言ったものと同じかもしれない。こうした気持ちは私の場合、いつも、水底の砂の中にどんどん沈んでいくイメージと一緒に襲ってくる。旅から旅へなにも持たずに暮らして、どこかで野垂れ死にできたらと思う。

水底へ沈んでいくというのは黄泉の国に下ることでもあるし、ということは、生きながら亡者の国を訪れることでもある。この小説も尼崎を舞台にはしているけど、「苛酷な現実を描き出す社会派小説」というのではまったくなくて、むしろ尼崎という名前を借りた黄泉下り小説になっている。

登場人物もこの世の住人ではなく、「芋虫を食べて」魔界に暮らすひとたちで、生島はこの世からオデュッセウスやダンテ、オルフェウスやエレシウスのように、一時的に彼らのもとを訪れることになる。

生島は魔界の暮らしを観察する。それに対してそこに暮らす人たちは、「覗かんといて」(隣室の年齢不詳の娼婦が言う)とか、「見たら死んでしまう」(晋平ちゃんが土管のなかのガマガエルを守ろうとして言う)とか、「目えだけで楽しもうとするのがあんたのいやらしいとこやということが、あんた、わかってないやろ」とか、牙をむいて身構える。一方で彼らは、生島に救いを求めて、娼婦だった過去を打ち明けたり、在日であると告白したり、拳銃を預けたり、心中に誘ったりと、自分の一部を差し出してくる。そんなふうに、存在をかけた告白を象徴するのが刺青で、読むうちにだんだん、刺青の美しさは体を削ることの美しさだと思わされる。もう死んでいる人が、それでも生き返ろうとして言う言葉ということか。そうした言葉に答えるためには、生島自身も自分の一部を差し出さないといけなくなる。そうした状況が、新藤涼子の「遅い」という詩で効果的にあらわされている。

だからこういう言葉を言おうと思ったら、一度死なないといけないわけだけど、死んでしまえば話すこともできなくなる。そこにいろいろ難しい点がある。

アヤちゃんと心中しようと赤目四十八瀧をめぐるのも、地獄めぐりのなかの地獄めぐりという構造になっている。

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