ケシシュ『アデル、ブルーは熱い色』2013

女性同士の恋愛を描いた小説や映画は読んだり見たりしておきたくなる。なかには偏見に満ちた作品もあり、かえって混乱させられることもあるから、それは気をつけないといけない。女だという要素がことさら強調されず、2人の人間の関係として自然に描かれている作品だと安心できるけど、いったい何が「自然」なのかは自分でもよくわからないし、この世の性愛関係の多様さをみれば、「自然な性愛」という考え自体が幻想かもしれない。それでも、ウルフの『ダロウェイ夫人』で、洗面器で顔を洗おうとする瞬間に相手のことを考えるシーンとか、クリスティの『予告殺人』にでてくるミス・ヒンチクリフとマーガロイドの関係とかは、とりわけ素直に読める気がして気に入っている。

女同士だからといって社会的試練や差別に伴う苦難がむやみに襲い掛かる作品ではなく、恋愛や日常生活そのものを丁寧に描く作品に心を打たれる。もちろん現実に存在する困難を明示し社会を批判することは大切だけど、そうした社会の偏見から守るべき関係性そのもの—-女同士で可能になる親密な関係性そのものをみて励まされたい。たぶん私たちの人間関係や恋愛や性行為は、「自然」なものというよりは、さまざまな既存の「物語」を手本に作り上げられていて、そうした物語のほとんどが異性愛モデルであることが、それ以外の関係に対する手本がないゆえの怯えや不安やためらいに繋がっていく気がする。これは同性間の関係だけでなく、世間でときに眉をひそめられるような性愛関係のすべてにあてはまる。

そう考えると、映画や小説作品がリアリティのある同性間のセックスを描くことは、結構大切だと感じる。なのでこの作品がたびたび長く詳細なセックスシーンを挟むのは、悪いことではないはずなのだが、何かひっかかるところもある。こういうことしてみたいと思えないところもあるし、これはありえないと思うところもある。じゃあどういうやり方ならいいのか、特に具体的な代替案があるわけではないけど、変に隠さず全裸を映すのはよい点だとして、組体操の展示みたいではなく、もっと余韻が残るようにできなかったかと思う。

これらのシーンについては、公開からしばらくして、アデルの恋人役のエマを演じたレア・セドゥが、長時間にわたり半ば強制的に演じさせられ苦痛だったと、アブデラティフ・ケシシュ監督を批判する事件もおきた。演技の中の性愛シーンや暴力シーンは、生身の人間が演じる以上、演技だと割り切れない部分が出てきて当然で、特にそれがスタッフたちの前で演じられ、しかも不特定多数にむけて半永久的に公開されるのだから、表現の自由と同時に、俳優の人権を考えないといけない。その時は役にはまり込んでいたり、作品を成功させたいと思ったりして、自ら進んで演じたシーンであっても、あとで距離を取って振り返ると、自分の本当の意志ではなかったと感じることもあるだろう。ヌード写真についても、荒木経惟のモデルをつとめた女性たちが、2017年と2018年に次々に批判の声をあげて話題になった。アダルトビデオについてもここ数年、議論が少しずつ進み、演技項目や撮影箇所の範囲などを事前に細かく契約してから撮影するような試みを始めているという。実効性はわからないけど、方向としては望ましいと思う。

セックスシーンについてはいろいろ考えるべきことがありそうだけど、作品全体としては、ウサギみたいなアデルが少女から大人になっていく、その不安定な時期の心と体のよるべなさが丁寧に描かれていて、胸に迫る。そんな素敵なアデルの相手が、自分勝手で傲慢なエマでいいのかと、そこにあまり納得できないのが残念だった。

ちなみにもっと共感できるすてきなふたりはこちら!
はぴLIFEチャンネル – YouTube

コメントを残す