中上健次『枯木灘』(1977)

すごく久しぶりに夏に帰省して、新鹿や大白で貝殻を拾ったり、雨の日に谷をのぼる霧を見たり、前の浜を覗き込んで、水面近くを青、黒、黄色の魚が泳ぐ様子を眺めたりしていたので、東京に戻ってきてから熊野の話をいろいろ読み返し、中上健次もあらためて読んだ。新宮の都市開発と中上の関係を分析する論文(若松司・水内俊雄「和歌山県新宮市における同和地区の変容と中上健次」2001)を併せて読んで、『紀州』や『千年の愉楽』を読んでもなかなか理解できなかった中上の時代批判・社会批判の複雑さが、やっとわかってきた気もする。

「岬」や『枯木灘』を読むと、山と海と川に挟まれた狭い土地の路地での暮らしが、そのまま自分の子供時代と重なってせつなくなる。岩で囲まれた川の淵の透明な感じや、山が重なって奥へ延びて行ってその緑の濃い感じ、海の光りとか、鳳仙花の匂いや製材所の木屑の匂い、蝉の声と鳶の声、家と土地と自然と歴史への執着も、他人事とは思えない。あとは海の向こうと、山と海に挟まれた空の向こうに、この世と続いた別の世界がある感じとか。

いつか帰りたいと思うけど、どうやって帰ればいいのかわからない。この小説が書かれたころから半世紀近くたち、その間に熊野の浦々は本当に人が減ってしまった。漁業、林業、農業がよくなればまた人が戻ってくるのだろうか。学校やお店、病院や銀行がなくなった集落に、そう簡単には戻れない気がする。それでも町を守って暮らしてくれている人たちのところに、私もいつか入っていきたいけれど、どうすればいいのか、難しい。

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