今村昌平「人間蒸発」(1967)

最近、身近で詐欺にあったり、詐欺のような話にまきこまれたりすることが続いて、本当に疲弊し、すこしノイローゼ気味になっていた。それでたまたまこの映画をみて、それがひどくなりそうだから、ここに書いて気持ちを整理しておきたい。

一年半前に失踪した男性を探す婚約者に、撮影隊が半年以上同行し、一緒に調査やインタビューをし、その過程を記録していく。警察署員が失踪届を読み上げるシーンから始まり、失踪者のひととなりを話す会社の上司や同僚の様子、なぜこの映画プロジェクトに参加しようと思ったのかを話す婚約者の姿、実家の親戚への取材など、関係者の証言が重ねられ、冒頭から一気に、現実の事件を扱っているという緊張感が高まる。証言者のたどたどしい語りのなかから、新潟の農家の四男に生まれて、家では食べて行けず、10代のころに東京へ出て、小さな問屋の社長宅に住み込みで奉公をはじめ、商売のお金を使い込んで給料から少しずつ返済したこともあったなどと、失踪者のことが少しずつ分かってくる。お酒が好きで、女性にもてて、捜索者である婚約者の直前にも付き合っていた人がいて、中には妊娠したという噂のあった人もあった。それで、どうやらお金と女性問題が失踪の原因ではないかというように、話が進んでいく。

失踪者の足取りはなかなか掴めず、親族が頼んだ霊媒師は元気でいるから探すなといい、婚約者がみつけてきた酷似の溺死者も別人だとわかる。調査が行き詰まるなかで、何か、失踪者が婚約者の姉と関係していたのではないかという疑惑が生じる。姉は小さいころ置屋に養子に出されて結局芸者になったが、売れっ子にはなれず、いまは社長さんと呼ばれる年配の男性の世話になっていて、その人の世話で運転士になるために免許をとったことなどが、本人をふくめたいろいろな人の証言でみえてくる。失踪者を探す主人公の女性とその姉の生い立ちを辿るうちに、姉妹との間にあった感情的なわだかまりも、だんだんとあきらかになる。

そのうち今度は、恋人の失踪者を探していたはずの女性が、半年以上の撮影で一緒に調査をしている俳優(露口茂)に恋をしてしまい、失踪人を探そうという意志がだんだん薄れていく。彼女にとってはいまや、失踪者がどこでどうしているかよりも、姉が自分を裏切って自分の婚約者と関係をもっていたのかの方が、重大な問題であるようだ。撮影隊は、姉と失踪者の関係を疑う婚約者とともに、姉の周囲をたずねて回る。驚いたことに、二人の関係を示すような証言が次々に出てくるのだが、姉はそのどれをも頑として否定する。ついには怪しい霊媒師が、失踪者を婚約者の姉が毒殺したと言いだしたりして、結局何が本当なのかわからないまま、混沌のうちに映画が終ってしまう。

インタビューのなかには隠し撮りされたものや目元を黒い線で隠した映像もあり、音声を後から録音し直して、映像に重ねているものもある。その音声の一部はあきらかに原稿を読み上げている風だが、一部は方言や言い淀みや文法の破綻や論理の飛躍があって、聞き取りにくい部分も多く、とうてい台本があるとは思えない。映像でインタビュアーに答える人たちの様子も、人前で話すことに不慣れで、俳優ではなさそうにみえる。そのため私も、この失踪した大島裁さんというのは本当に失踪してしまった人で、婚約者の早川佳江さんやその姉の早川サヨさんも、その周りの人たちもみな実在の人物だと思って見ていた。というか、最初の方はYouTubeで見ていて、途中からは音声だけ流して片手間に仕事をしていたので、そう聴いていた。

それが終盤、姉のサヨさんと失踪者の大島さんの二人が並んでいるのを度々目撃したという魚やと、身に覚えがないと言い張るサヨさんの間で、「本当のことだ」「でも事実じゃない」と何度目かの水掛け論になったとき、佳江さんが「でも真実ってなんでしょう」とつぶやくと、急に部屋の壁が取り外されて、それが映画のセットだったことが示されることになる。解体は「セット飛ばせ」という監督の指示とともに急にはじまり、続けて次のように言われる。

「あなた方が言っていることは、真実には真実という実感が伴うはずだってことだと思います。僕にも真実ってものは何が何だかわかんないけど、これも一つの真実だとは思ってる。たとえば、ここにこういうセットがある。天井や屋根こそないけれども、なんとなくちゃんとした部屋んなかのような気持ちでいままで話をしてきましたよね。あなた方にも、たぶん部屋としての実感があったでしょう。ところがこれは撮影所っていうもののなかの、ステージのなかの、セットでしかない。実感なんてものはあんまり信用できないですよね。これはフィクションなんです。大島君の蒸発という事実から、このような追求のドラマが展開されてきたわけだけど、これも、自然に展開してきたわけじゃない。ないでしょう。展開しようとして展開してきたわけなんだ。(スタッフに向けて声をはりあげて)常夜灯!(明かりがつく)つまりこういういうことにあるにすぎないんだ。キャメラはあなた方を映そうとしているし、あなた方は映されようとしている。明日はまたここで別の映画が、いわゆる嘘芝居をやるわけです。しかしそれが嘘で、こっちが本当だってことには必ずしもならないでしょう。こっちだってフィクションだというわけです」

こうして最後のインタビューが路上で行われる。そこでもう一度、姉と失踪者の密会を「見た」「知らない」の口論が始まるが、そこでも監督は何度も、「これはフィクションなんだから」と叫ぶことになる。

***

いい加減に耳だけで聞いていたら、こうして非常に後味が悪いオチがまっていたので、やむをえずもう一度見ることになった。そうやって見てみると、おそらく、失踪者の足取りが福島で消えて、いったん捜査が行き詰まり、映画製作関係者一同で今後の方針を話し合う場面あたりから、完全なフィクションに移行したように、とりあえずは思えた。捜査映画になりすぎていたという反省が口に出され、「情念の世界にもちこみたいですね、問題を」と露口茂が発言し、監督らしき人が、「彼(失踪者)の深い内部の動きにもっと焦点をあてて作る立場の仮説をたててみる」と言い始める。一同は、「もっと勇気をもって」「飛躍する」ことで同意し、そこから、婚約者佳江では飽き足りなかった大島が、東京にいる間に「もっとふっくらした、あたたかみのある女性」に癒しを求めたというストーリーが流れはじめ、その温かみのある女性として、佳江の姉のサヨが突然注目されるようになる。

ここから先の話は完全なフィクションだろうと、私はほとんど確信しているけれど、そうすると、その前の場面も、本当に事実に基づいているのだろうかと疑問がわいてくる。そもそも大島裁や早川佳江や早川サヨは実在するのだろうかと疑わしくなる。そう思って見なおしてみると、何か騙されたような、腹立たしいような、そして気持ちが悪いような感覚が広がってくる。映画の最後の場面で、あくまでもシラを切りとおす姉のサヨに対して、密会を目撃したという魚やが腹を立て、捨て台詞を吐く。

「すごい人だな。もう何にもいうことないや。俺こんな気持ちになったのはじめてだよ。俺はもう馬鹿でお人よしだからね。本当に、こんなこと本当に、はじめから見ないでいればこんなことになんなかった」。

もちろんこれは、シラを切りとおすサヨに向けられた台詞のはずだけど、たぶん観客の思いも代弁していて、今村監督の「活動屋」としての自己への自嘲にもなっている。

もともとはきっと、よくあるテレビの失踪者探しドキュメンタリーに、たびたびヤラセや過剰な演出が含まれているのを見ていた監督が、ドキュメンタリーとフィクションの境目は何かとか、演じるとはどういうことかとかを考えて、こういう作品になったのだろう。この作品がうまくいっているーーというのは、結局どこまでが事実でどこからがフィクションなのかがよくわからないように見えるという意味でうまくいっているーーのは、かなりの部分、露口茂の俳優としての技量にも拠っていると思う。

ここのところのへんな話で疑い深くなっていて、私はいまとなってはもう、この映画は完全なフィクションだとしか思えなくなってしまった。詐欺のただなかに入ると、一見した意味の世界が奇妙な風に歪んでいって、そこから隠された悪が見え隠れするものの、その全容は見えないという、認識の魔境を体験する。それは『藪の中』とも異なる次元の気味悪さで、世界への信頼感が損なわれる感じがする。そんなときにこの作品をみたので、なおさら腹が立つというか、不信感がつのるというか、監督のインタビューなどをみても、のらりくらりと交わしていて、さらに気分がわるくなってしまった。

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